「ありがとう」(2009/04/24)
初夏(しょか)の晴(は)れた日(ひ)。今日(きょう)は大吉(だいきち)と涼子(りょうこ)の結婚式当日(けっこんしきとうじつ)。支度(したく)を終(お)えた涼子(りょうこ)は、花嫁(はなよめ)の控(ひか)え室(しつ)でドキドキしながら式(しき)の始(はじ)まるのを待(ま)っていた。大吉(だいきち)も一人(ひとり)、控(ひか)え室(しつ)で落(お)ち着(つ)かない様子(ようす)。二人(ふたり)が結婚(けっこん)を決意(けつい)するまでには、いろいろなことがあったのだろう。
大吉(だいきち)には一(ひと)つだけ心残(こころのこ)りがあった。それは、いちばん喜(よろこ)んでほしかった妹(いもうと)を、ここに呼(よ)ぶことができなかったこと。もう、七年(ななねん)も音信不通(おんしんふつう)のままになっていた。
控(ひか)え室(しつ)のドアをノックする音(おと)で、大吉(だいきち)は我(われ)に返(かえ)った。もう式(しき)の始(はじ)まる時間(じかん)である。きっと式場(しきじょう)の人(ひと)が呼(よ)びに来(き)たのだと思(おも)い、大吉(だいきち)は「どうぞ」と声(こえ)をかけた。しかし、誰(だれ)も入(はい)っては来(こ)なかった。大吉(だいきち)は誰(だれ)かが悪戯(いたずら)でもしたのかと、ドアを開(あ)けてみた。
「えっ…」大吉(だいきち)は思(おも)わず声(こえ)をあげた。ドアの外(そと)には、きれいに着飾(きかざ)った若(わか)い女性(じょせい)が立(た)っていたのだ。それも、見覚(みおぼ)えのある。
「お兄(にい)ちゃん…」その女性(じょせい)は、恥(は)ずかしそうにそう言(い)って、「元気(げんき)にしてた?」
「あゆみ…。おまえ……」あまりの驚(おどろ)きに、大吉(だいきち)は言葉(ことば)が出(で)なかった。
「お兄(にい)ちゃん、結婚(けっこん)するんだ」あゆみは控(ひか)え室(しつ)に入(はい)って、大吉(だいきち)の服装(ふくそう)をチェックしながら、「なかなか、格好(かっこ)いいじゃない」
大吉(だいきち)はたまっていた思(おも)いを吐(は)き出(だ)すように、「おまえ、どこにいたんだ! お兄(にい)ちゃん、どれだけ心配(しんぱい)したか。急(きゅう)に家(いえ)、飛(と)び出(だ)して。それで…、みんな…」
「ごめんね。勝手(かって)なことばっかりして…」
あゆみは大吉(だいきち)の胸(むね)に飛(と)び込(こ)んだ。大吉(だいきち)も優(やさ)しく妹(いもうと)を抱(だ)きとめた。ひとしきり兄(あに)の胸(むね)で泣(な)いたあゆみは、「お兄(にい)ちゃんに、言(い)っておきたいことがあるの」
「そんなことより」大吉(だいきち)はあゆみの手(て)を取(と)り、「母(かあ)さんに顔(かお)を見(み)せてやれ。どれだけ会(あ)いたがっていたか」あゆみはその手(て)を振(ふ)りほどいて、「もう、時間(じかん)がないの」
「なに言(い)ってるんだ。じゃ、俺(おれ)が呼(よ)んできてやるよ」
「待(ま)って! ねえ、聞(き)いてよ。私(わたし)の話(はなし)を」
大吉(だいきち)は、妹(いもうと)の真剣(しんけん)な表情(ひょうじょう)に足(あし)を止(と)めた。
「私(わたし)、お兄(にい)ちゃんから、いろんなものをいっぱいもらってたんだよね。小学校(しょうがっこう)の運動会(うんどうかい)のとき、一番大(いちばんおお)きな声(こえ)で応援(おうえん)してくれた。中学(ちゅうがく)で陸上部(りくじょうぶ)に入(はい)ったときも、お兄(にい)ちゃんが励(はげ)ましてくれたから、最後(さいご)まで走(はし)れたの。大学(だいがく)の受験(じゅけん)を失敗(しっぱい)したときも、ひと晩中(ばんじゅう)、側(そば)にいてくれたよね。それなのに私(わたし)…。でもね、ずっと帰(かえ)りたかったんだ。帰(かえ)りたかったけど…」
「もう、いいよ。おまえは…、ちゃんと帰(かえ)って来(き)たじゃないか」
「今(いま)まで、ありがとう。こんなダメな妹(いもうと)だったけど、ほんとに、ありがとう」
「なに言(い)ってるんだよ。おまえは俺(おれ)の大事(だいじ)な妹(いもうと)じゃないか。そんなことは…」
大吉(だいきち)はドアのノックの音(おと)で目(め)が覚(さ)めた。いつの間(ま)に眠(ねむ)ってしまったのだろう。ただ、妹(いもうと)のぬくもりがまだ手(て)に残(のこ)っているようで、どうしても夢(ゆめ)だとは思(おも)えなかった。
大吉(だいきち)のもとに訃報(ふほう)が届(とど)いたのは、結婚式(けっこんしき)から一週間後(いっしゅうかんご)だった。妹(いもうと)の友人(ゆうじん)が遺品(いひん)の整理(せいり)をしていて、大吉(だいきち)の住所(じゅうしょ)を見(み)つけたのだ。重(おも)い病気(びょうき)にかかり入院(にゅういん)して、結婚式(けっこんしき)のあった日(ひ)に昏睡状態(こんすいじょうたい)になり、数時間後(すうじかんご)に息(いき)を引(ひ)き取(と)ったそうである。
<つぶやき>大切(たいせつ)な人(ひと)って、知(し)らない間(ま)に心(こころ)の奥(おく)に入(はい)り込(こ)み、気(き)づくとそこにいるんです。
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